「自分の気持ちに正直に生きる」と言うが、「自分の気持ち」はどこにあるのだろう。移り気な気持ちで痛い目に遭うのはよくあること。後悔しない程度の「自分の気持ち」を確保したいだけなのに、それがなかなか難しい。
答えのないままその問いを放置していたとき、この言葉に出会った。
「汝の敵を愛せよ」は「汝の敵を好きになれ」ではない。もっと何かをしぼりだすような、または自らに言い聞かせるようなことを必要とする愛である。
自分の鑑賞眼、自分との利害、好き嫌いをはなれたところにある、そのものの価値を見出すことは意志の問題であり、自らとの戦いともなるのである。
「好き」には努力がいらないが、満たされたら興味を失い、次の飢えが発生するまで待たなければいけない。アイスクリームを「好き」というが、適量を超えたとき、それは「嫌悪の対象」となってしまうだろう。
一方、愛には価値を見出すという努力が必要となる。努力を伴った愛の喜びは長く続き、そして深い。それはちょうど芸術家の創作の喜びに似ている。画家は好きなものの絵を描くのだろうが、彼の絵は対象の美を超えて、彼の内面から湧き出す美への感興と一体となり、一個の独立した創作物となる。それは絵の対象と彼の心が渾然一体となった結晶であり、その喜びは対象への愛を共に、自己内部への再発見からくる驚きなのである。
私たちは快・不快の法則に支配されている。しかし、本当の深い喜びは快・不快を超えたところにある。毎日、同じ時間に起きて仕事に行くのはつらいことではあるが、仕事を通してのみ味わえる達成感や充実感がある。運動の爽快感も同じであろう。表面的な好き嫌いとは別な感覚が私たちの中に確かにある。
努力の愛は、自然の愛ではないというかもしれないが、自然に任せていたら愛は不幸しか生まない。
それこそ、飢餓状態の動物のようで、満たされたあとは用がないのである。
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