「たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さだと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない。」
この本を読んだのは大学を出て仕事を習い始めた頃だった。先輩たちの会話の中でこの本の話題を耳みし、その週末に買いに行ったことを覚えている。当時、2万円分の本を買うことを決まりにしていたので、その月に購入した十数冊の内の一冊になった。残念ながらその大半は積読になり、記憶もされずに消え去ったが、この本だけは読了、さらに繰り返し、そして私の中では最高のリスペクトである「読書メモ」の対象となった。
その当時、人並みに恋愛については考えていたが、この本を読んで孤独と愛についての抜き差しならぬ関係にクリアな解答を得た。
「たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さだと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない。」
恋愛がもたらす感動は「壁が崩れる体験」にある。日常のささやかなフラストレーションはささやかな誤解の蓄積にある。つまりはお互いに「理解されず理解できず」まま生き続けなければならない。しかし、恋を感じた瞬間、違うレベルの希望を懐かせる。ある相手との間にできた親密な関係が、完璧な相互理解の可能性、つまり「一体感」を予感させるのだ。その情熱的な感情は通常「恋に落ちる」と表現されるが、実のところ自分がいかに孤独であったかを示しているにすぎない。だから「落ちる」のだ。初恋の感興は二度と戻らないように、一体感への予感は少しずつ裏切られ、最終的に気づくのは「所詮、自分が孤独だ」というあきらめだ。
ここでフロムは説く「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は、何よりも与えることであり、もらうことではない。」と。
愛は与えることであるが、さらに彼は「与えないことが苦しみにつながる」と説く。「幼児に乳を与え、体のぬくもりを与える。与えないほうが苦痛」「与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただし、それは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない。」
愛は、他人との生産的な関わりであり、それは自分の命を生産的に使うこと。
「落ちるのではなく」「与えること、そして生み出すこと」に命を使いたい。
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